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みんなの「史跡」ブログ


生麦事件の探索

2012/02/08 17:31
 朝廷は幕府に攘夷断行を求めて、江戸に赴く大原勅使の護衛として薩摩藩の島津光久が同行し、その帰途についた文久2年(1882年)8月21日午後2時ごろ、イギリス人4人がこの生麦で下馬もせず、大名行列とすれ違いました。駕籠が通る際に馬が駕籠に向かって暴れだしてしまったので、駕籠を護る藩士に斬られてしまった。この事件を地名に因んで生麦事件といい、薩英戦争の契機になりました。

(1)生麦事件発生現場地図
生麦事件発生現場

 旧東海道沿いで右側の住宅の塀に「生麦事件発生現場」という説明板があります。見落としたら、上の地図で場所を確認してください。
生麦事件発生現場の説明板
 生麦事件発生現場の説明板は、生麦村名主の関口日記から引用しているので、昔の「・・候」文で書かれています。

早川松山 画
 左側は説明板に描かれている早川松山の画。

昔は写真がないので、証言からこのような絵にしたのかも。

早川松山 画
 左側はそのカラー版の画です。

(2)生麦事件の碑地図
生麦事件の碑

 旧東海道を横浜方面に向かって進み、第一京浜国道に合流するところにありましたが、現在は周辺を再整備するため工事中で、何もない状態です。なお、写真は以前に撮ったものです。
生麦事件の説明板
 説明には詳細が書かれていませんが、4人のうち先頭にいたリチャードソンが一番傷を負い、発生現場から700mほど逃げて落馬した。そして、追い掛けてきた藩士に捕まり命を落としたのが、この碑のある場所です。

(3)生麦事件犠牲者の墓地図
外人墓地22地区

 外人墓地の22地区(元町側)にあり、元町入り口から裏手に入った小道ですぐ左側に案内板があります。中には入れませんが、囲いのところから見ることが出来ます。生麦事件の犠牲者3人の墓があります。
案内板
 手作りなのか目印の案内板の文字が読めなくなっていますが、正面に見えるのですぐにわかります。

なお、リチャードソン以外の人は事件後も日本に留まって商売をしていたようです。


生麦事件犠牲者の墓

左側:WILLIAM MARSHALL、中央:CHARLES RICHARDSON、右側:W・CHARLES CLARKE

参考:生麦事件参考館(地図):横浜市鶴見区生麦1-11-20
 生麦出身の浅海さんが、個人で生麦事件の関連資料を展示している場所です。 (見学には要予約)
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宅地造成で消えていく寺尾城址

2011/10/30 16:19
 用事で出かけた序にちょっと足を伸ばして、第一京浜国道から、昔、住んでいたことがある鶴見まで行き、城址を探してみました。昔のこの辺りは水田や畑が多く、子供のころザリガニを取りにきたものです。今は当然、住宅街になっており、さらに、寺尾城址の周辺も宅地造成している最中であり、城址の説明の立て札だけを残して消えていこうとしていました。
 東寺尾から上って上寺尾小学校の案内板の手前を右折すると、宅地の中の小高い丘にありました。
寺尾城址

寺尾城址説明板 寺尾城址の説明板によると、発掘により東西に延びる空堀の一部があったようです。しかし、18世紀には富士山の噴火で埋まったようである。

寺尾城址の説明 さらに進んで下りた所に小さな殿山公園があり、その園中に寺尾城址の説明板がありました。

 【寺尾城の遺構】の説明
 寺尾城は戦国時代に、小田原北条氏に仕えた諏訪三河守5代にわたる城址である。永禄十二年(1569)十月、武田信玄の小田原侵攻のさいに寺尾城は没落したといわれている。城跡には、当時の空堀・土塁・曲輪など中世の城郭が残り貴重な遺跡となっている。町名の馬場・諏訪坂などに城野ようすがいまに伝えられている。

 逆に左折した奥の住宅の角に、寺尾城址の石碑がありました。
寺尾城址の石碑

周辺は造成中
 寺尾城址の周辺は造成中で説明板以外では跡形もない状態になる。

 昔、住んでいた所を通過して第二京浜国道から帰えりました。
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久しぶりに三浦半島一周

2011/06/04 21:16
 梅雨の合間に晴れたので、久しぶりに運動不足解消のために三浦半島一周することにしました。自宅から国道16号線に出て、まず観音崎に向う。観音崎は小休止だけですぐに出発して浦賀に向う。途中、渡船場の近くに今までに気付いていなかった史跡の案内板がありました。

 江戸時代から大正時代まで旅館をしていた徳田屋跡を見つけました。現在の建物は当時のものではないそうです。
石碑には「吉田松陰。佐久間象山相会処(徳田屋跡)」とあった。
徳田屋跡
 説明板によれば「徳田屋は江戸時代から明治・大正期まで続いた浦賀を代表する旅館です。(途中省略)ペリーが来航した嘉永6年(1853)6月には黒船を見聞するために吉田松陰が二度目の宿泊をして、ここで佐久間象山と合っています。松陰も象山もこれより二年前の嘉永4年(1851)に松蔭は熊本藩士・宮部間臓とともに江戸湾沿岸の防衛情況視察のために、象山は門弟の小林寅三郎をともなって思索の旅で徳田屋を訪れています。(以下省略)

三浦半島の最先端の城ヶ島公園に到着する、トイレ休憩と軽食をとりました。
城ヶ島公園

 ここから三浦半島の西側を走行します。反対車線はちょっと混雑気味でしたが、走行している方向は快適でした。三崎口駅前を通過して今まで素通りしてしまっていましたが、今日は和田義盛の碑に立寄ることを1つの目標にしていました。というのもこれで三浦半島の史跡を殆ど行ったことになります。

和田義盛の碑 石碑には「和田義盛奮里碑」とあります。地図には和田義盛旧里碑とあるが、何の碑なのわからない。説明板によれば、「由比ガ浜で北条師に滅ぼされてしまった義盛の在所と思われるこの地に碑を建てたという。近くに城があったようで少し散策してみましたが、今はどこにあったのかはわかりませんでした。

 長浜には立寄りましたが、荒崎には依らず国道134後線を北上して行きました。鎌倉は混雑するので、逗子で東に方向を変えて帰路につきました。

【クロスケ号の走行記録】
平均速度:21.5m/Hr
最高速度:47.9Km/Hr
走行距離:112.72Km
累積走行:11,509Km
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浦島太郎伝説の慶運寺(別名:浦島寺)

2011/05/20 15:32
 新横浜方面に出かけてかえる時に旧東海道の探索の時に見落としていたお寺が見つかりました。いつも利用している第一京浜から第二京浜に抜ける道沿いに慶運寺(別名:浦島寺)がありました。ここは浦島太郎伝説のゆかりの寺でもある。

 サイクリングの記録の「旧東海道を行く(T)《神奈川宿〜保土ヶ谷宿》に追加しました。

慶運寺
 山門もなくちょっと見落としてしまいそうな入口でしたが、最近、目立つように直したみたいです。

フランス領事館跡 横浜開港当時のフランス領事館があったところで、現在はフランス領事館跡の石碑が建っていました。

 もっと横浜寄りの旧東海道沿いにある甚行寺にはフランス公使館跡があります。


慶運寺本堂
 間口は狭いですが、奥のほうに大きな本堂があります。京浜急行本線沿いなので、電車からもよく見えるでしょう。

慶運寺の説明
 「慶運寺」の説明文を転記

 慶運寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観によって開かれた。京の連歌師谷宗牧は「東国紀行」の天文十四年(1544)三月三日の条に「ほどなくかな川につきたり、此所へもこづくへの城主へいひつけられ、旅宿慶運寺にかまへたり」と書いている。開講当初はフランス領事館に使われた。
 また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。


 当時の慶運寺の様子の図
慶運寺

 境内にある「浦島太郎伝説関係資料」の説明パネル
浦島太郎資料 浦島太郎伝説は観福寿寺に伝えられていた縁記書に由来すると考えられますが、同寺は慶応四年81868)に焼失したため、縁記のしょうさいについては確認できません。しかし、『江戸名所図会』『金川砂子』などの文献には縁記に関する記述が見られます。

 それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生れた。太郎は20歳余りの頃、澄の江の浦から龍宮にいったり、そこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人なく、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、三百年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなった。そこで、人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。
 この浦島伝説が伝わっていた観福寿寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺と、大正末期に観福寿寺が所在していた地に移転してきた蓮法寺(神奈川区七島町21番地9に残されている。
 慶運寺に移された浦島観世音は、浦島太郎が籠宮から玉手箱とともに持ち帰ったといわれているもので、亀の形をした台座の上に「浦島寺」と刻まれた浦島寺碑や浦島父子塔XX(読めない)に浦島伝説を今日に伝えるものです。
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枡形城址を散策

2011/05/14 19:32
 今年の武州稲毛七福神めぐりの際に時間切れで、寄れなかった枡形山の城跡に今回、運動不足解消で行ってきました。日本民家園の手間にある生田緑地の中に枡形山があり、駐輪場に自転車を止めて、急な上り坂は徒歩で上って84mの山頂の広場を目指しました。
広場への道
 広場への道を上ると城壁らしきものがあります。当然、後にらしく造った物でありますが。

枡形門
 山頂広場の入口には枡形門がありました。結構広い広場で、子供たちが走り回っていました。

 広場の正面には、櫓をイメージした展望台があります。展望台にはエレベータがありますが、節電のため使用中止の張り紙がありました。
枡形山の展望台

展望台からの眺望
 基本的には360度眺められますが、木が大きくなってきて隠れ始めている方角もあります。写真は多摩水道橋が見える方向です。東京方面は霞んでいて写真では余りはっきり映りませんでした。東京スカイツリーも今日は見えてませんでした。

枡形城跡の石碑 展望台の左側に枡形城址の石碑がありました。

 稲毛三郎重成によって築かれたと伝わり、重成は稲毛荘を支配して枡形城を本拠にして勢力を拡大した。枡形城の北を登城路として広福寺は重成の居館跡と伝わる。但し、これらは全て伝承によるものであり、確証があるわけではない。七福神めぐりの時には広福寺の門柱に、さり気なく重成の居館跡の札があった。
 
 稲毛氏は、元久二年(1205)の畠山重忠の乱に巻き込まれて滅ぼされて、枡形城は廃城になったと考えられる。

【クロスケ号の走行記録】
平均速度:20.9Km/Hr
最高速度:41.1Km/Hr
走行距離:79.35Km
累積走行:11,259Km
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都内にある龍馬と海舟の史跡

2010/10/16 17:35
 いつもの産業道路から第一京浜(国道15号)に入って、そこから立合川で右折して、高架の上を走っている京急線の立合川駅からの商店街にある小さな児童公園に龍馬像があります。現在、その台座が工事中で龍馬像は地面に下りていました。なぜ、ここにあるかというと土佐藩の江戸屋敷があったためで、浜川砲台も土佐藩のものだったようです。
立合川駅


 結構、立派で等身大の龍馬像です。
龍馬像


 商店街を抜けると旧東海道に出て、立会川にかかる浜川橋(通称、涙橋)のところを横切り進むと、浜川下水ポンプ場があります。その脇に、浜川砲台跡ということで大きな石と説明板がありました。
涙橋


 浜川砲台跡とはいっても、とって付けたような大きな石が並ぶだけでした。一応、説明板もあるので、確かに浜川砲台跡のようです。
浜川砲台跡


 その隣にある「しながわ花海道」といわれている所です。海岸沿いにキバナコスモスがきれいに咲いていました。
しながわ花海道


 第一京浜(国道15号)に戻って国道1号に出て、六本木を経由して赤坂にある勝海舟の屋敷跡に向う。
勝海舟邸跡


 勝海舟邸跡の碑と説明板
勝海舟邸跡


 この近くにも勝海舟邸跡があり、旧氷川小学校跡に出来た港区赤坂子ども中高生プラザの駐輪場の奥にもありました。少し迷って一度通り過ぎてしまいました。
勝安房邸跡


 碑には勝安房邸跡とありますが、説明では明治時代に勝海舟が住んでいた屋敷跡があったそうです。
勝安房邸跡


 帰りは来たルートをそのまま快走して、昼食にはちょっと遅くなりましたが自宅で素麺を食べました。

【クロスケ号の走行記録】
平均速度:22.1Km/Hr
最高速度:41.8Km/Hr
走行距離:100.79Km
累積走行:9611Km
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下総国分寺周辺の探索

2010/07/24 08:24
 市川駅から北に弘法寺があり、そこで右側に行くと須和田公園や小さな郭沫若記念公園などがある。通なりに進み坂を上ると、国分寺跡ではなく現存している下総国分寺があります。入口に入ると朱塗りに山門があり、その反対側には、下総国分僧寺の史跡説明もありました。
下総国分寺の山門

 下総国では、市川に国富がありましやので、ここに国分寺が建立された。
下総国分寺

 下総国分寺の見取図です。発掘調査では法隆寺様式の伽藍(からん)配置をもつ金堂・講堂・塔の遺構が発見されている。
下総国分寺の見取図

 住宅街の中を少し進むと下総国分寺跡がありました。
下総国分寺跡

庚申塔
 どこでも国分寺と国分尼寺は少し離れた所にあります。下総国分寺跡から庚申塔の角で曲がります。

 下総国分尼寺跡
下総国分尼寺跡

 下総国分尼寺跡の碑
下総国分尼寺跡の碑

 下総国分尼寺は、1932年に発掘調査されて金堂と講堂の基壇が確認され、「尼寺」とかかれた墨書土器が出土したことから、位置を確定することができた。その後の発掘調査で東西南北の溝が見つかり、北構340m、東溝303mの不整な方形をしていたという。

 この後、市川歴史博物館と市立公庫博物館を回って、栗山浄水場から里見公園とじゅうん菜池公園を散策するコースで戻りました。栗山浄水場には遠くからもよく見える立派な配水塔があったので、寄り道しました。
配水塔


 江戸川の土手に出てみると、江戸時代に洪水に苦しみ天保七年に掘削して造られたという旧坂川跡の碑がありました。
旧坂川跡の碑

羅漢の井
 里見公園を散策していたら、飲むことは出来ませんが羅漢の井という湧き水があり、江戸名所図会にも描かれている由緒あるものです。

国府台城跡
 また、里見公園には国府台(こうのふだい)城跡という。

 文明一〇年(1478)に扇谷上杉氏の家宰大田道灌が下総国国府台」に陣をかめたとあり、これがはじまりで道灌は武蔵にいた千葉拠自胤(よりたね)を助け、敵対する境根原(柏市)に出陣して、孝胤を破った。国府台は下総大地の西の端で、江戸川に平行して南に張り出している。里見公園のなかに土塁状の城郭遺構が残っているが、築城の時期は特定できない。天分と永禄の二度にわたって、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らが国府台合戦をしたところでもある。
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市川関所跡周辺の探索

2010/07/23 00:10
 蔵前橋通りを千葉方面に走行して、江戸川に架かる市川橋の手前の江戸川交差点で左折しました。
江戸川交差点

 宝林寺の前には大きな木があり、その下には庚申塔がありました。
庚申塔

 京成本線の江戸川駅のガード下に市川の渡しのイラストが描かれていました。
市川の渡し

 昔、角屋旅館の塀に市川関所跡があったように思い周辺を探索しましたが、見つけることがでませんでした。見つかったのは、住宅前に「番所跡町の慈恩寺道石造道標」だけでした。佐倉道と旧佐倉道の分岐点と市川渡しの正面にあったそうです。
画像

 市川橋を渡って千葉県に入ってすぐに、案内板に従って左に曲がり少し先の土手の脇に市川関所跡があります。
市川関所跡

 市川関所跡の説明板
関所跡の説明板

【説明文】
 江戸時代以前の江戸川は太目川と呼ばれていた。奈良・平安時代の関所跡周辺には、井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使が太目川の渡し船と馬の乗りかえをおこなった。また、室町時代には、市川を旅した連歌師の宗長が、その時の紀行文「東露の津登」のなかで、市川に渡があったことが記しており、古くからここに人々が集い、川を渡っていたことがわかる。
 やがて、江戸に幕府が置かれると、江戸を守るなどのため、関東の主な川に、船の渡場で旅人を調べる「定船場」が設けられた。古くから渡があり市場でにぎわっていた市川が選ばれ、これが後の関所になった。
 時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出て行く女性が、特に厳しく取り締まられた。
 「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くの場合は「小岩・市川関所」と記され、対岸の二村が一対で一つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取り調べをする役人を補佐した。また江戸時代を通じて、江戸川には橋が架けられなかったので、関所を通り、水戸・佐倉道を往来する人々のために、市川村では、二〜三艘の船を用意し、川端に晩小屋を建て、二〇人前後の船頭や人夫を雇っていた。そのため「御席所附渡船之村方」とも呼ばれた。
画像 慶応から明治へと時代が変わった時、旧幕府軍と新政府軍の激しい戦いの舞台となり、明治二年(1869)に関所廃止令が出されて、その使命を終えてもなお、明治三十八年(1905)に江戸川橋が架けられるまで、渡船の運行は続けられた。しかし、度重なる江戸川の護岸工事で、関所の建物や渡船場の正確な位置は、今日不明となっている。

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勝海舟の由来地

2010/07/21 00:21
 靖国通り(国道14銅線)を千葉方面伊に進み両国3の交差点で右折する。すると、両国小学校の角に芥川龍之介の文学碑と日露戦争で活躍した「不知火」の錨がある(地図)。

芥川龍之介の文学碑
 芥川龍之介の文学碑は、両国小学校で学んだ近代日本を代表する作家を偲ぶものとして建立された。

 「不知火」の錨
 「不知火」の錨は、両国にあった鉄鋼業者が船体の解体を行い、錨を寄贈したことによるため。


 両国小学校の角を左折して隣にある小さな両国公園の奥に、勝海舟生誕之地の碑がある(地図)。
画像
【説明文】
 勝海舟は幼名を麟太郎といい、文成六年(1823)1月13日この地。男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。慶応四年(1868)3月13日、高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名である。
 明治三十二年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去行年七十七歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。

 墨田区役所前の浩養園跡に勝海舟の銅像が建っています(地図)。勝海舟生誕百八十年で平成十七年7月(海の日)に建立されたとあり、新しいようです。
勝海舟の銅像


妙見山別院の勝海舟銅像
 妙見山別院にも勝海舟の銅像があるとことで探したが、迷って、昔、運河だった所を埋立てて公園にしてある大横川親水公園に出て、昔の名残りの橋を手がかりにたどり着けました。
 妙見山別院の門を潜り、左側に勝海舟の銅像がありました(地図)。

【由来】
 勝海舟九才の時に大怪我をし、その際、妙見大士のご利生により九死に一生を得、その後開運出世を祈って大願成就した由縁があるそうです。


【参考】以前に訪れた勝海舟の由来の地

(1)「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地」(地図
勝・西郷の会見地

【田町薩摩藩(勝・西郷の会見地)附近沿革案内】
 この敷地は、明治維新前夜、慶応4年3月14日、幕府の陸軍総裁、勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
 この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られる来る米などは、ここで陸揚げされました。現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは、遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また、人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

(2)勝海舟夫妻の墓(地図
勝海舟夫妻の墓

 勝海舟、諱(いみな)は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政六年(1823)江戸に生れる。驀進として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。洗足池やその周辺の風光を愛し、明治三十二年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
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北辰一刀流の玄武館跡

2010/07/20 08:04
 久しぶりの輪行で都心まで行った。祝日の早朝ということもあり、通勤客もほとんどいない神田駅で自転車を組み立てて、千葉方面に向って散策しながら走り始めた。
 まず最初に立ち寄るのが岩本町辺りにある北辰一刀流の千葉周作が開いた玄武館跡であるが、明治6年に創立された学校であったようで、今は旧千桜小学校跡の広い空き地をぐるりと回ってやっと記念碑を見つけられた。小学校の裏門(?)らしき跡の鉄門(自分で開閉する)を入ると記念碑があった(地図)。
玄武館跡


 ここは坂本龍馬が修行をしたという道場跡なので立寄った。
玄武館跡
【説明文】
 千葉周作はここに玄武館を開いて、北辰一刀流の剣術を指南し、その西隣に文政4年登場一堂は瑶池塾を開いて諸生に儒教と詩文を教授した。

    千代田区

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タイトル 日 時
平塚市馬入の史跡を巡る
平塚市馬入の史跡を巡る  梅雨の合い間に、旧東海道の史跡で平塚の馬入本町にあるので、馬入(ばにゅう)まで行ってきました。久しぶりの湘南海岸沿いの134号線を快走する。新しく4車線に広がった湘南大橋を渡り、北上して国道1号線を横切って相模川サイクリングロードの脇にある馬入渡し跡に行く(地図)。 ...続きを見る

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2010/07/08 18:45
横浜にも台場公園がある
横浜にも台場公園がある  東京のお台場海浜公園の前にある台場公園(第三台場史蹟公園)が有名ですが、横浜にも台場があったので神奈川台場と区別しているようであり、近くに小さな台場公園があります。いつも通る浜通りから少し入ったところにあるため、台場史跡の場所と離れているので今まで気づかなかった。ここは東高島駅(貨物専用駅)前の駐車場の隣になります(地図)。 ...続きを見る

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2010/06/09 13:38
三浦一族ゆかりの地(衣笠)
三浦一族ゆかりの地(衣笠)  三浦半島の古道(8世紀の頃)は奈良(平城京)から常陸(現在の茨城県石岡市)へ至る官道は、鎌倉付近から三浦半島を通り、古代の走水から海を渡り、房総半島へ通じていました。鎌倉時代には古代の道筋に沿って、三浦半島中央部と鎌倉を結ぶ道が幹線として発達し、鎌倉道と呼ばれていました。鎌倉道やその始動沿いには三浦半島を支配した三浦氏の城山や館が点在していました。衣笠合戦で敗れるまでその中心が衣笠城だったのでしょう。 ...続きを見る

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2010/05/13 23:17
勝海舟と咸臨丸の由来地(浦賀)
勝海舟と咸臨丸の由来地(浦賀)  三浦半島を走行するときにはいつも通過してしまう浦賀ですが、今日は勝海舟と咸臨丸の由来があるので少し詳しく散策してきました。 ...続きを見る

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2010/05/07 12:07
龍馬の妻おりょうの由来地
龍馬の妻おりょうの由来地  NHKの大河ドラマの影響で坂本龍馬ブームですが、龍馬というか妻の「おりょう」に由来の地が神奈川にあるので、行ってみることにした。  1つは旧東海道沿いの神奈川宿にあった田中家で、当時から続く唯一の料亭で看板には文久三年(1863年)の創業が記されていた。前身の「さくらや」は広重の東海道五十三次にも描かれています。(地図) ...続きを見る

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2010/05/06 11:29
八景島にある「ペリー艦隊碇泊地」記念碑
八景島にある「ペリー艦隊碇泊地」記念碑  八景島には「ペリー艦隊碇泊地」の記念碑があります。シーパラダイスだけでなく、坂本竜馬が黒船を見にいたのは浦賀ではなく、金沢八景だったのでしょうか。今まで黒船は浦賀に来たと思っていました。確かに「日米修好通商条約」を横浜(現在の横浜開港記念館の辺り)で行われたのですから不思議ではないですね。八景島シーパラダイスに遊びがてら訪れてみてはいかがでしょうか? ...続きを見る

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2010/04/04 15:07
長屋門公園に立寄る
長屋門公園に立寄る  ヘルメットを購入したサイクルショップの近くにある長屋門公園に立寄る。住宅街の中にあるので見つけにくいが、昔、ここら辺は養蚕で栄えたのかもしれません(携帯電話で撮影)。 ...続きを見る

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2010/02/09 16:11
磯子の歴史マップの散策
磯子の歴史マップの散策  最近の何かと区役所に行く用事が多く、区役所の入口の脇にあるパネルに「いそごの歴史マップ」というのがあり磯子区内の史跡を散策するのにとても参考となります(地図)。 ...続きを見る

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2010/02/06 14:06
神奈川県の城跡巡り
神奈川県の城跡巡り  久しぶりに電柱の立っていない田んぼの中の1本道です。車は殆どは走っていないので、気持ちよく稲の匂いがする水田の脇を快走していく。神奈川県にもこんな道があったのですね。 ...続きを見る

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2009/09/08 00:50
港北ニュータウンにも城跡
港北ニュータウンにも城跡  港北ニュータウンのど真ん中に当たる早淵川沿うの高台に、茅ケ崎城跡公園があることを知りました。最近、きれいに整備されたような新しい案内板がありました。(地図) ...続きを見る

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2009/08/23 10:14
見沼通船堀の散策
見沼通船堀の散策  芝川サイクリングロードの終点である八丁橋を左折して1つ目の信号と2つも信号の間の右側に、右側の写真の見沼通船堀公園の入口があります。日本の歴史公園の百景にも選ばれているという。入口付近は鬱蒼とした竹林の中をきれいに整備された渡り廊下(?)を進むと広場に出て、その先に保存されている見沼通船堀がありました。 ...続きを見る

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2009/08/14 11:02
三増峠を探索
三増峠を探索  連休でやっと走れるので、以前に立寄った愛川で寄れなかった峠に行くことにしました。境川CRを利用して瀬谷から左折して座間に抜けて、座架依橋を渡りました。相模川の河原で大凧まつりがあるようでしたが、先を急ぎました。川沿いの県道511号線に出ると大渋滞で裏道を迂回してやっと抜けると鯉のぼりが壮大に泳いでいました。 ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

2009/05/05 13:26
宮ヶ瀬湖と周辺散策
宮ヶ瀬湖と周辺散策  この頃、厚木方面に行く時は新湘南バイパスの脇道を利用して寒川に出て相模川は神川橋で渡ります。神川橋では春には珍しく富士山がよく見えていました。先週よりも花粉は少なそうです。 ...続きを見る

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2009/03/23 00:23

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